■プロフィール

Author:MINORIN'
1986年4月生まれ。福島県出身。
東京都内の私立大学文学部に通う。
中学3年のとき、右目失明。
20歳を過ぎた頃から、両目失明の恐怖に苛まれる。
現在、就職活動に際し、生き方を模索中。

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手帳
 どうやら法的にも僕は障害者ではないらしい。医者に「就職活動するんで、障害者手帳が欲しいんですけど」と言ってみたら、「あなたには適用されません」と言われた。意外だった。右目が全く見えなくても?

 障害者雇用促進法によると、従業員56人以上の企業は社員数の1.8%以上障害者を雇わなきゃいけないことになってるので、手帳を持ってると就職しやすいはず…! などとよこしまなことを考えていたが、ダメだった。

 適用されないのかあ、とちょっと溜息をつく。

 だが、手帳は本当に困っている人のためのものだ。俺みたいな、就職を有利にしたいとか映画館に安く入りたいとか考えてる人間のためのものじゃなかろう。あんまり変なこと言ってると不謹慎だな。

 卑屈になる理由は完全になくなった。そうも考えられる。堂々と生きていこう。

未分類 | 21:26:04 | Trackback(0) | Comments(0)
アメリカ帰り
 はじめての面接で「私は右目の視力がありません」と言った。言うことができた。小さいけれども、大切にしたい達成。今日、合否を確認した。結果、合否の否。

 かなり好きになった企業だっただけに、残念。

 もちろん、「目が見えないから落とされた」なんてことは絶対に思わない。卑屈になることを、絶対に避ける。「どうせ俺は障害者だから」は絶対に禁句。

 目が見えないなんて選考に不利になるだけだから言わないほうがいいんじゃないの、と思われるかもしれないけれど、今やこれを言わずに自分を語ることはできないし、これを隠したまま仕事をするわけにはいかない。隠さなければいけない空気があったとしたら、そんなものは打ち破らなければならない。

 厳しさに直面している。負けるわけにはいかない。

 シカゴでの5日間。俺は鍛えられた。 

未分類 | 21:32:18 | Trackback(0) | Comments(0)
病んでこそ

 健康は確かに素晴らしいことだ。でも「健康でなければなにもできない」というのは、おかしい。健康でなんかなくたって、なんでもできる。

 病んでこそ、人生。

未分類 | 10:22:33 | Trackback(0) | Comments(0)
必死すなわち生くるなり

 『余命一か月の花嫁』

 を書店で手に取った。それだけで、感じ入るものがあった。
 誰もが感動する本だろう。商業主義的な「感動」を避ける主義の人(俺もそうだが)でも、これは認めるんじゃないか。

 「必死すなわち生くるなり」

 死を覚悟したその瞬間から、本当の生が始まる。黒澤明の『生きる』も同じテーマだった。 

 過酷な運命は生を輝かせる。

 みんなそのことを知っている。だったらさ、もう「五体満足」や「健康」をもてはやすのはやめようよ。健康でなくたって人間は十分に輝けるし、病気になるからこそ生きられる「生」がある。それは本当に素晴らしいことだ。

 もちろん「病気になったほうがいい」なんて言うわけじゃない。愛する人たちにはいつまでも健康でいてほしいし、自分だって出来る限り健康に暮らしたい。前にも書いたけれども、もし目が治るのならば何千万の借金を背負ったっていい。

 俺が「健康」や「五体満足」をもてはやすのはやめよう、というわけは、「健康」から外れてしまった人たちに暗いイメージを与えるのをやめようということなんだ。余命一カ月だろうが、重い障害を背負おうが、人間はいくらでも生命を輝かすことができる。

 それなのに生命力のない顔をした病人や障害者の多いこと多いこと。本人の責任もあるが、周りが勝手に「配慮」と称して彼らを重苦しく扱ったりすることにも原因があるんじゃないか?

 日本中の病人や障害者の外見を生命力溢れたものに変える。それこそ『余命一カ月の花嫁』の千恵さんみたいな表情にね。それが俺の目標。そのために、「時代の空気を変えることができる」仕事がしたい。そのために、リクルートみたいな会社に入りたい。

 正確にいえば、この目標はリクルートの説明会に着想を得たのだが。

 健康であることがすばらしいんじゃない。いのちを輝かせていることが素晴らしいんだ。

 そういう世の中に変える。



未分類 | 00:18:28 | Trackback(0) | Comments(0)
時代遅れの理想主義

 リクルートの説明会に行って、僕は「常に変わり続けたい、変え続けたい」と思う人間となった。

 社会に対して情熱的であり続ける。現実に負けることなく、時代遅れの理想主義者であろうかと思う。

 そんな情熱を僕に与えてくれたリクルートという企業に、しばらくは夢を見ることにしよう。就職活動に、感謝。

 まとまった文章が書けなくてすいません。

未分類 | 08:44:31 | Trackback(0) | Comments(0)
就職活動
 こう見えてもバリバリの就活生だ。このブログを始めたことがきっかけで、エントリーシートや作文の試験に堂々と「私は中学生の時に右目の視力を失い、劣等感を抱いていました。しかし私はそれをかくのようにして乗り越え〜」みたいな感じで、書きまくってる。

 これで採用にマイナスになるとは、自分では全然思っていない。

 でも俺、こんな目でちゃんと働けるのかな。人並に仕事できるのかな。大切な人を守れるだろうか?

 何があっても、ちゃんと生きる。今はそれだけ。

未分類 | 20:35:21 | Trackback(0) | Comments(4)
犠牲者
 こないだクジラの話をした。メスをめぐってオスたちは争い、一匹のオスだけが勝ち残る。勝ったオスはメスと交尾する権利を手にする。負けたオスたちは交尾している雄の体が沈まないように身を呈して支えてやる、ということだ。

 負けたオスの自己犠牲がなければ勝ち残ったオスもメスと子孫を残すことができない。「子孫繁盛」という目的のために生物は平気で自己を犠牲にする。

 人間の世界だって、多くの「犠牲者」がいなければ絶対に成り立たないようになっている。僕たちが日常口にする食物のために、どれほど多くの人々が食糧と幸福を奪われていることか。僕たちの幸せは、世界中の何百万の飢えや貧困に苦しむ人々の上に成り立っている。それは間違いない。そして僕たちはファーストフードをむさぼり食べて彼らの尊い犠牲に一瞬たりとも思いをはせることがない。先進国は貧しい国から食糧を奪い取ってそれを食べずに捨て、貧しい国では毎日大勢死んでいく。そんなふざけた構造を是正する術すらない。

 それでも僕はまず第一に、自分の周りにいる人々の幸福を考えなければならない。遠い世界で苦しむ人々など、しょせんメディアがつくりあげた虚像だ。本当かどうか、わかるはずもない。それよりもまず、自分で肌に触れて感じられる人々に、まず幸せになってもらわなきゃならない。そのためにアフリカで飢えに苦しむ人々には、悪いけど犠牲になってもらう。

 そんな風にして僕たちは生きていく。

 生きるために、牛に魚に植物に、多くの生物を犠牲にしなければならない。人間同士だって犠牲になる。同じことだ。

 その一方、自ら進んで犠牲になる人々も世の中には一定数いる。愛する人のため、愛する故郷のため、あるいは遠い国の知らない子供たちのために。

 「美」という漢字がどうやってできたのか、知ってるだろうか。上の「羊」はいけにえ、すなわち犠牲を表す。ギセイが大きいと書いて「美しい」なのである。

 望む望まざるにかかわらず、人類が生き残るために犠牲者は絶対に必要だ。だから自己犠牲は美しいとされる。でも僕は自分の周りにいる幸福そうな人々に向かって「自己犠牲の精神を身につけろ!」などとは絶対に言えない。自分にも言えない。それでも、今は幸福を受容する立場にある僕たちが、いつか犠牲者の側に回る可能性はある。そのときの覚悟はしておくべきだろう。

 何よりも次に生まれてくる「いのち」の尊さを知るために、犠牲になった人々の「いのち」を見つめることを忘れないでほしい。彼らの失われたいのちの美しさを感じてほしい。彼らがどれほど貴重なものを、僕たちに残していったのか、そのことだけは忘れるべきじゃない。

 「犠牲者のいない世界を目指す」試みである共産主義は失敗に終わった。今ではファシズムと並ぶ巨悪の思想のようにも言われる。ファシズムも共産主義も理想的な社会をつくろうという切実な思いに端を発する点では同じだ。だが理想の追求とは、往々にして人々を暴走させてしまうものなのだ。

 だがそれでも、今もし世界のどこかに「犠牲者の出ない理想社会を目指す」人々がいるとしたら、彼らには絶対にあきらめないでほしいと思う。たとえ暴走するとしても、理想を求める人々がいなければ、いのちの尊さを見つめることを僕たちは忘れてしまう。

 僕はまず第一に、自分が肌で触れてきた人々の幸福を願う。
 そして次に、遠い国の犠牲者たちの美しさに思いをはせる。犠牲者のいない世界を夢見る。
 
 僕の目に映る世界は、普通の人に比べてだいぶ狭い。けれども心の中の世界は、だれよりも広いものであるよう努めるつもりだ。

未分類 | 20:02:17 | Trackback(0) | Comments(0)
ありのままの自分
 「中途失明者のほとんどが、本気で自殺を考えるそうです」

 と、中学生の僕は言った。聴衆のまなざしが真剣になるのを感じ取った。その年だったか、その前の年だったかに始まった「総合学習」の発表会だった。例に漏れず福祉がテーマ。「共生」とかなんとか。僕の班は視覚障害について調べることになった。とある中学生向けの福祉の本に、上の言葉が書いてあって、こいつはインパクトがあっていいや、と思って引用した。

 言うんじゃなかった、と今では後悔している。

 あのとき高らかに言ってしまったがために、言葉は僕の意識を強く支配し、今もって「失明=自殺」という認識を植えつけている。

 失明したら、自殺したくなるだろうか?

 すでに自殺を望んだことはある。去年の夏、8月の末だ。あの暑さがいけなかった。暑さのために意識に大きな狂いが生じた。今年の夏こそは、暑さに対して万全を期して迎えようと今から心がけている。

 ミュージシャンの井上大輔(忠夫)さんは失明に向かう自己を苦にして自殺してしまった。58歳、網膜剥離。同じ病気だ。彼が自殺したとき、視力は今の僕より悪かったのだろうか?

 なんで58歳にもなって自殺なんかしちまったんだ、と僕は彼に問い詰めたくなる。21歳の俺だって、こんな目を抱えながらも自殺なんか考えずに立派に生きてる。知人の大半には右目が見えないことを知られてすらいない。自殺なんかしてしまったら、同じように苦しんでいる俺みたいな人間の不安材料になる。もしかしたら病気は仮の理由で、自殺の本当の原因は他にあったのかもしれない。それにしたって、なんで、なんで。

 ……調べてみたら、奥さんの介護の問題とか、いろいろあったらしい。亡くなった方についてあれこれ言うのは、本当に良くないことだ。やめよう。

 以前英語ディスカッションの授業で、アメリカにある聴覚障害者のための大学についてのVTRを見た。その大学の学長も、バイク事故のために聴覚障害者となった人なのだが、その人が女性インタビュアーの「もし耳が治せるようになったら、治しますか」という質問に答えてこう言った。

「もし君が、男になれる薬ができたけど飲みたい? と言われたらイエスと答えるかい? そんなわけないだろ。それと同じように私も耳が聞こえるようになりたいとは思っていない。耳が聞こえないのは単なる『違い』であって、欠点ではないんだ」

 すごいな、と思った。今の僕は絶対にそんな心境にはなれない。ヘレン・ケラーですら、「視覚も聴覚もないが世界はこんなにもすばらしい」という趣旨のエッセイの最後に、「視覚こそが最もすばらしい人間の感覚だ」と言っている。目が治るといわれたら、数千万の借金を背負うとしても治す。新聞に万能細胞についての記事が載っていると、切り抜いておかずにはいられなくなる。万能細胞が僕の目を治してくれるのではないかと、夢想に近い期待を抱いている。医学的な根拠は何もない。

 目の見えない自分をきちんと受け入れられるか。

 毎日が、自分との激しい戦いだ。つらいばかりではない。勝てるかもしれない、と思ったときの高揚感は何事にも代えがたい。同時に、無理だと思ったときの精神的苦痛もまた、生易しいものではない。

 このブログが僕を勝利に導いてくれる。間違いなく。

 ありのままの自分を受け入れ、感じ取ったままの世界を愛する。慰めを求めてそれを愛と呼ぶようなことはせず、ありのままの自分に自信を持ち、それを愛してもらう。それができるようになる。いつかきっと。

未分類 | 01:28:31 | Trackback(0) | Comments(3)